「自分が得をするために、誰かが損をしている」
「競争に勝って手に入れた喜びなのに、なぜか心から満たされない」
美味しいものを食べる、欲しいものを手に入れる、仕事で他者を出し抜いて成果を出す……。
私たちが日々追い求めている「喜び」や「享楽」。
しかし、その喜びがもし、誰かの犠牲の上に成り立っていたり、誰かの幸せを奪うものであったりしたら、それは本当の意味で私たちの生命を輝かせてくれるのでしょうか。
「自分だけ」の喜びを卒業する
中村天風氏は、私たちが追い求めるべき「喜び」には一つの明確なルールがあると言います。
私の言う喜びは、そこに厳格な一つの規格があるのです。 その規格というのは難しくも何ともないの。すべてのいかなる種類の享楽にせよ、それが絶対に他の人の幸福を妨げるものであってはいけないのであります。わかったかい。でないと、その享楽が悪になります。だから、他の人の幸福を妨げない享楽なれば、それは人間が自分の生理的本能を生かして、自分の命を喜ばせるんだから、むしろそれは尊いものなんだねえ。 さらに、人を喜ばせて、自分がまた、その人とともに喜ぶということがいちばん尊いことなんだ。
(中村天風『盛大な人生』より)
自分の命を喜ばせることは尊い。
けれど、それが他人の不幸の上に築かれてはならない。
そして、最高に尊いのは「人を喜ばせ、自分もともに喜ぶこと」である。
天風氏のこの言葉は、常に誰かと競い合い、自己中心的な喜びに走りがちな現代人の心に、鋭く、かつ優しく突き刺さります。
「受け」と「取り」が響き合う、合気道の妙味
この「ともに喜ぶ」という感覚は、合気道の稽古における「受け」と「取り」の関係性に体現されています。
合気道の稽古は、技をかける「取り」と、技を受ける「受け」が交互に入れ替わりながら行われます。
もし「取り」が、自分一人が強くなろうと身勝手な腕力で相手を投げ飛ばそうとすれば、必ず相手の力とぶつかり、痛みを与え、無用な反発を生んでしまいます。そこに調和はありません。
自分が「受け」に回ったとき、相手の力がどこでぶつかっているのか、どこに無理があるのかが、自分の身体への「痛みや違和感」として手にとるように分かります。
だからこそ、「受け」はただ黙って倒れるのではなく、相手がよりスムーズに技をかけられるように、身体を通じてフィードバックし、導いていくのです。
そうして相手の無駄な力みが抜け、美しく技がかかるようになった時、私たちは自分のことのように嬉しくなります。
今度は自分が「取り」になったとき、自分もまた「ここがぶつかりやすいポイントだ」と相手から学んでいるため、より深く、スムーズに技の理合いへと入っていくことができます。
一人では決して辿り着けない場所へ
自分一人が強くなるのではなく、相手の成長が自分の成長に直結している。
合気道には、このお互いを高め合う「絶対的な喜び」があります。
一人では決して辿り着けない高みへ、相手とともに行く。
そこに合気道の面白さがあります。
私たちはつい、競争に勝つことや、自分だけが利益を独り占めすることに価値を置きがちです。
しかし、誰かを踏み台にした喜びは一過性のものであり、必ず後に虚しさが残ります。
「この行動は、誰かの幸せを妨げていないか?」
「この喜びを、誰かと分かち合えるだろうか?」
そう問い直すことは、人生という大きな舞台で「受け」と「取り」の調和を図る稽古と同じです。
他人を喜ばせ、ともに成長していくことは、結果として自分自身の生命を最も強く輝かせてくれるのです。
今日の稽古
「自分が勝つこと、独り占めすること」ばかりを追い求めていないか。
誰かの犠牲の上に成り立つ喜びは、本当の喜びではない。
自分だけの利益に走りそうになる時、自分にこう語りかける。
「人を喜ばせ、ともに喜ぶことが一番尊い」と。
相手の痛みを理解し、導き、ともに成長していく。
今日も私は、独り占めを手放し、互いに高め合う稽古を実践する。
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