なぜ、あの人の何気ない言葉があれほど引っかかるのでしょうか。
なぜ、同じような人間関係のつまずきを、何度も繰り返してしまうのでしょうか。
もしかするとそれは、相手の問題ではなく、自分の心の中にある「何か」を相手が映し出しているからかもしれません。
謙虚な心があれば、すべてが「心の鏡」になる
松下幸之助氏は、著書『道をひらく』の中で、自分自身の誤りに気づくための「心の鏡」についてこのように語っています。
身なりは鏡で正せるとしても、心のゆがみまでも映し出しはしない。だから、人はとかく、自分の考えやふるまいの誤りが自覚しにくい。心の鏡がないのだから、ムリもないといえばそれまでだが、けれど求める心、謙虚な心さえあれば、心の鏡は随所にある。
自分の周囲にある物、いる人、これすべて、わが心の反映である。すべての物がわが心を映し、すべての人が、わが心につながっているのである。
(松下幸之助『道をひらく』より
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心のゆがみは、洗面台の鏡には映りません。
だからこそ、人は自分の過ちや驕りに気づきにくいものです。
けれど、求める心と謙虚さがあれば、周囲にいる人や起きる出来事のすべてが、自分を映す「鏡」になるというのです。
耳の痛い、厳しい言葉です。
私たちは本能的に、自分の非を認めることを避けようとします。
しかし同時に、これは確実な成長の道を示してくれる温かい言葉でもあります。
相手の身体を通じて自分の「力み」を知る
この「相手は自分を映す鏡である」という感覚は、合気道の道場に立つと痛いほどよくわかります。
合気道の稽古で、技がうまくかからないことがあります。
自分では正しく動いているつもりでも、相手はどこかで違和感を感じ、結果として技が滞ってしまう。
心の中にある「力み」や「焦り」。
あるいは「相手を無理やり倒してやろう」というエゴや、間合いのズレ。
技を受けている相手は、それを言葉ではなく「身体」で敏感に感じ取っています。
だから時には、相手に同じように技をかけてもらう(自分が受けを取る)ことで、自分の癖や心の乱れが、鏡に映したようにはっきりと伝わってくることがあります。
道場において、相手は倒すべき「敵」ではありません。
自分の心身のあり方を映し出してくれる「鏡」なのです。
そうやってお互いを映し合い、乱れを正していく。
それが地道な稽古の姿です。
周囲を責めるか、鏡として受け取るか
もちろん、起きる出来事のすべてを「自分のせいだ」と抱え込む必要はありません
仕事の中で理不尽なこともあれば、不誠実な扱いを受けることもあります。
けれど―― その出来事に対して「自分がどう受け止め、どう振る舞うか」。
その反応の仕方には、必ず今の自分の「心」が映っています。
相手や周囲の環境を責めるだけでは、現実は何も変わりません。
他人の言動を「心の鏡」として受け取り、自分の内面を見つめ直したとき、はじめて本当の意味での成長が始まります。
今日の稽古
他人の言葉や態度にイラッとした時、自分にこう語りかける。
「今、自分の心が映し出されているのだ」と。
世界は、心を映す鏡。求める心と謙虚さがあれば、すべては自己を高める学びに変わる。
今日も私は、周囲を責めるのではなく、自らの心を正す稽古を実践する。
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