道場の準備運動に、毎回やることがあります。
仰向けに寝て、足の親指の付け根から、息を吸う。
丹田を通して、踵から吐き出す。
もちろん、息は実際にはそこを通りません。
空気は鼻と口からしか入らない。
長いあいだ、これが何の役に立つのか分かりませんでした。
いまは、これがメンタルの訓練そのものだと思っています。
「メンタルを鍛えろ」と言われても、たいていの人は何をすればいいか分かりません。
我慢の練習なのか、気合いを入れることなのか。
やり方が、一つも示されない。
でも、中村天風氏が言っていたのは、精神論ではありませんでした。
天風氏の教えは「強い心を持て」ではなく、「意識して物事をしなさい」です。
心の持ち方ではなく、意識をどこに向けるかという操作の話。
だから、身体を使って練習できます。
今日は、天風氏の言葉を稲盛和夫氏がどう受け取ったかを追いながら、メンタルを「訓練」として扱う方法を書きます。
読み終えるころには、いま座ったままできることが一つ、手に入っているはずです。
中村天風の「意識してやりなさい」とは、何を指しているのか
無意識に流れている動作を、自分の意思で動かし直すこと
稲盛和夫氏は『京セラフィロソフィ』で、こう書いています。
これは中村天風さんの言葉の受け売りですが、天風さんは「生きていくには、常に意識して物事をしなさい。無意識にしてはいけない」と仰っています。このことは、経営の場合にも非常に大事なことで、どんなささいなことでも意識を集中して物事を考える、自分で意識をそちらに向ける、つまり「意を注ぎなさい」ということなのです。
(稲盛和夫『京セラフィロソフィ』より)
読み返すたびに思うのは、この二人が「心を強くしろ」とは一言も言っていないことです。
言っているのは「意識をそちらに向けろ」。
心ではなく、意識。
そして意識は、向ける先を自分で決められます。
強くしろ、は指示になりません。
どうすればいいか分からないからです。
向けろ、は指示になります。
向ける先さえ決めれば、いますぐできる。
天風氏が「意識して」と言い、稲盛氏がそれを「意を注ぐ」と言い換えたのは、たぶんそこです。
「注ぐ」は、動作です。
そしてこの心の使い方が「有意注意」——意を有して、注ぐ、です。
反対語は「無意注意」。
ぼんやりと目に入っているだけの状態です。
同じものを見ていても、意を注いでいるかどうかで、見えるものがまったく違ってくる。
なぜ「意識を向ける」だけで、そこまで変わるのか
一日のほとんどが、意識の入っていない動作でできているから
自分の一日を思い返してみてください。
エレベーターのボタンを押す。
改札を通る。
パソコンを開く。
メールを流し読みして「承知しました」と返す。
会議で頷く。
このうち、意識を入れてやったものが、いくつあるでしょうか。
私はほとんどありませんでした。
身体が勝手に動いていた。
そして身体が勝手に動くとき、それは昨日の自分の繰り返しです。
昨日と同じ手順で、昨日と同じ判断をして、昨日と同じ結果を出す。
無意識でやっているかぎり、何も変わらない。
当たり前のことですが、私はここに長く気づきませんでした。
意識を入れた一瞬だけ、昨日と違うことが起きます。
だから稲盛氏は「どんなささいなことでも」と書いたのだと思います。
大きな決断のときだけ気合いを入れても、一日のほとんどは無意識のまま過ぎていくからです。
合気道の稽古は、技より先に「意識の置き方」を練習している
指先と呼吸に意識を置けるかどうかを、毎回確かめているから
合気道の稽古で、意外に思われることがあります。
技より前に、意識の話が出てきます。
たとえば——自分の指先まで意識をする。
手を伸ばして、指の先に意識がある、と感じる。
感じられているかどうかは、自分にしか分かりません。
誰にも見えないし、証明もできない。
それでも、意識が指先まで届いている日と、届いていない日は、技が変わります。
届いていない日は、腕が途中で止まる。
相手とぶつかる。
呼吸も同じです。
呼吸は、ほうっておいても勝手に続きます。
まさに、「無意識の代表」です。
ところが意識を向けた途端、変わります。
浅い胸の呼吸が、深い腹式に変わる。
そして——呼吸を「感じる」ようになる。
放っておいても動くのに、自分で変えることもできる。
身体の中で、そういうものはあまり多くありません。
心臓は止められないし、消化も早められない。
だから呼吸が、意識の訓練の入口になります。
今日その場でできる、いちばん簡単な訓練
一回でいい。座ったまま、息の通り道をイメージする
冒頭に書いた準備運動を、もう一度。
足の親指の付け根から、息を吸う。
丹田(へその下)を通す。
踵(かかと)から、息を吐き出す。
通らないものを、通す。
これがこの訓練の目的です。
会社の椅子でも、そのままできます。
寝る必要はありません。
座ったまま、一回だけ。
足の親指の付け根から吸って、丹田を通して、踵から吐く。
目を閉じなくても構いません。
一回でいいです。
十分やろうとすると、続きません。
天風氏も稲盛氏も「常に」と言っていますが、常にできる人はいません。
一回できた日を、増やしていくだけです。
この訓練は、仕事の何を変えるのか
「言われたからやる」が、「自分で決めてやる」に変わるから
正直に書きます。
呼吸を意識したところで、売上は上がりません。
変わるのは、同じ作業が「自分のもの」になるかどうかです。
たとえば、回ってきた承認印。
無意識に押せば、それは処理です。
一度だけ意識を向けて「これは何のための判断か」と考えて押せば、それは仕事になります。
やっている動作は、まったく同じです。
かかる時間も、ほぼ変わらない。
入っているものだけが違う。
稲盛氏が「経営の場合にも非常に大事」と書いたのは、たぶんそういうことです。
経営者だけの話ではありません。
自分の一日を、自分で動かしているかどうかの話です。
そして——それは、意識を向けた瞬間にしか起きません。
効かない時期がある、という話
意識を扱う訓練は、身体に余力がないと成立しないから
もう一つ、正直に書いておきます。
この訓練が、まったく効かない時期があります。
私は一度、心身を壊して休職しました。
あの頃に「呼吸に意識を向けなさい」と言われても、たぶん何も届かなかったと思います。
意識を向けるという行為は、向ける先を選べるだけの余力がないと成立しません。
全部が痛いときに、一点だけを選ぶことはできない。
だから、順番があります。
先に休む。訓練はそのあと。
もしいま何をどう意識しても身体がついてこないなら、それは意志の弱さではありません。
やる順番が来ていないだけです。
▶ 参考:「復職が怖い」——休職した大手企業管理職の、2ヶ月の記録

今日の稽古
いま、一度だけ呼吸に意識を向ける。
足の親指の付け根から吸って、丹田を通して、踵から吐く。
うまくできなくても構わない。
意識を向けようとした、そのこと自体が訓練になっている。
今日も私は、無意識に流されず、意を注ぐ稽古を実践する。
■ この記事を書くにあたって読み返した本
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