「もっと部下を褒めろ」と言われて、困ったことがあります。
褒めろと言われても、見当たらない。
資料は粗い。報告は遅い。指示したことの半分しか返ってこない。
それを褒めたら、嘘になる。
長いあいだ、そう思っていました。
いまは違います。
褒めるところがなかったのではなく、私に見えていなかっただけでした。
人が何かをできるようになるとき、全部が一度にできるようになることはありません。
必ず、どこか一箇所だけが先にできます。
そしてその一箇所は、見ようとしない人には、まず見えない。
これを教わったのは、会社ではなく道場でした。
合気道を三ヶ月やっても、技はできません。
まったくできないのです。
それでも師範は、稽古のあとにこう言います。
「いまのは、力が抜けていてよかったよ」と。
褒め言葉は、探すものではありません。
見つける技術です。
今日はその見つけ方を書きます。
「本当に一つもない部下はいるのか」という反論にも、逃げずに答えます。
読み終えるころには、明日あの人に言える一言が決まっているはずです。
「褒めるところがない」と思っていたころ、私が見ていたもの

できたか、できなかったかの「○×」しか、物差しがなかった
当時の私がやっていたのは、要するに○×をつけることでした。
資料が使えるか、使えないか。
期限に間に合ったか、間に合わなかったか。
この見方をしているかぎり、育っている途中の人は、ずっと×です。
そして×の人を褒めることはできません。
嘘になるからです。
だから「褒めるところがない」という結論になる。
ここまでは、たぶん正しい。
問題は、○×という物差ししか持っていなかったことでした。
合気道の稽古を○×で見たら、道場にいる人のほとんどが×です。
三年やっても×かもしれない。
それでも道場は続いていて、みんな次の週も稽古に来る。
別の物差しがあるからです。
熟達者は、初心者の何を見ているのか
技の完成ではなく、そのなかに一瞬だけ混ざる「本物」を見ている
合気道の技は、一連の動作の集まりです。
入り身があり、転換があり、崩しがあり、抑えがある。
初心者は、これが繋がりません。
途中で力が入り、相手とぶつかり、止まる。
でも、そのなかに一瞬だけ、本物が混ざることがあります。
「いま、相手と気が合ったね」
「いまのは力が抜けてて、腕の重みだけで崩せてたよ」
技としては、失敗しています。
最後まで通っていない。
それでもその一瞬だけは、間違いなく本物です。
デール・カーネギー氏は『人を動かす』で、こう書いています。
我々は、子供や友人や従業員の肉体には栄養を与えるが、彼らの自己評価には、めったに栄養を与えない。栄養価の高い食べ物を与えて体力をつけてやるが、優しいほめ言葉を与えることは忘れている。優しいほめ言葉は、夜明けの星の奏でる音楽のように、いつまでも記憶に残り、心の糧になるものなのだ。
(デール・カーネギー『人を動かす』より)
初めて読んだときは、やや大げさな比喩だと思いました。
いまは、「音楽」という言葉を選んだのが正確だと思っています。
音楽は、鳴り終わったあとも頭の中で鳴り続けます。
褒め言葉も同じで、言われた瞬間より、あとから効く。
私はいまだに、あの「いまのは、力が抜けていてよかったよ」と言われたことを覚えています。
技は失敗していたのに。先が何も見えない時期に、あの一言だけが、暗がりの中で光っていました。
あとから効くから、記憶に残る場所に置く必要がある。
カーネギー氏が言っているのは、たぶんそういうことです。
本当に、できているところが一つもない人はいるのか
いる。ただし「ない」と「見えない」を、区別してから言うべきこと
ここで正直に書きます。
います。
どれだけ探しても見つからない人は、実際にいます。
「誰にでも長所がある」というのは、企業の研修資料の言い分であって、現場の実感ではありません。
ただし——それを判断していいのは、一動作まで降りて見たあとです。
私はそれをやらずに結論を出していました。
資料全体を見て、×。
報告を聞いて、×。
その人の手元の一つひとつを、一度も見ていなかった。
「ない」と「見えない」を、区別しないまま「ない」と言っていたわけです。
そして、なぜ熟達者には見つけられるのか。
ここに、いちばん怖い答えがあります。
熟達者も、かつて同じ壁の前で立ち尽くしたからです。
腕がぶつかって動かない。
何度やっても崩せない。
あの「まったくできない感じ」を、身体で覚えている。
覚えているから、初心者のどこが先にできるようになるかを知っている。
逆に言えば、こうなります。
部下のできている一点が見えないのは、自分が同じ壁の前にいた日を、忘れているからです。
これは能力の話ではありません。
記憶の話です。
思い出せば見えるようになるのです。
「気が合ったね」を、仕事の言葉に置き換える
結果ではなく、過程のなかの「一動作」を名指しする
やってしまいがちなのが、これです。
「よくやってるね」
「助かってるよ」
悪気はありません。
むしろ善意で言っている。
それでも、ほぼ効きません。
どこを見て言ったのかが分からないからです。
言われた側は「社交辞令だな」と受け取ってしまいます。
そして忘れます。
一方、こういう言い方があります。
「あの資料、結論が先に書いてあったから読みやすかった」
「さっきの電話、相手が怒ってたのに、最後まで遮らずに聞いてたね」
違いは一つだけ。
どこを見たかを、言っているかどうか。
そして見た場所さえ言えば、褒め言葉は嘘になりません。
資料全体が及第点でなくても、「結論が先に書いてあった」ことは事実だからです。
○×で見ていた頃の私は、「嘘になるから褒められない」と思っていました。
逆でした。
一動作に着目すれば、嘘をつく必要がなくなるのです。
言葉より先に、渡せるものがある
あえて技にかかり、「できた感触」を身体に覚えさせる
合気道には、言葉より先の教え方があります。
熟達者は、あえて技にかかります。
初心者の技は、本当はかかりません。
力がぶつかって、動かない。
それが普通です。
そのとき熟達者は、わざと崩れて、投げられる。
手加減ではありません。
相手の身体に、技がかかったときの感触を覚え込ませるためです。
正しく通った技がどういうものか、身体が一度も知らなければ、目指す先が分からない。
そして、ここが誤解されやすいところですが——
投げられている側も、稽古をしています。
受けを取るのは、相手のための奉仕ではありません。
相手の技を感じ取り、自分の崩れ方を学ぶ、こちらの修行です。
合気道の稽古は、投げる側と受ける側の二人で、ひとつ。
どちらかが与えているのではない。
だから「あえてかかる」は、甘やかしではありません。
稽古を成立させるための、こちら側の技術です。
仕事でも、同じことができます。
部下の提案に、あえて乗ってみる。
多少荒くても、一度通してみる。
会議で、あえてその人に振って、答えられる問いを渡す。
そして——それは部下のためだけではありません。
粗い提案に一度乗ってみると、なぜ粗いのかが分かります。
書類の×だけ見ていたときには、絶対に見えなかったものが見える。
受けを取ることでしか学べないことが、たしかにある。
言葉で褒めるのは、そのあとでも構いません。
それでも、なぜそこまでするのか
辞めてしまった人は、二度と戻ってこないから
道場を辞めた人が戻ってくることは、ほとんどありません。
みんな「自分には向いていなかった」と思って辞めます。
でも、たいていは違う。
できていた一点を、誰も言葉にしなかっただけです。
私も、初心者の頃に誰かが一言くれたから、いまも続いています。
あの一言がなければ、私は早々に辞めていました。
続けられること自体が、いちばん大きな成果です。
カーネギー氏の言う「心の糧」とは、たぶんそういうことなのだと思います。
派手な賞賛ではなく、明日もう一度やってみようと思える程度の、小さな一言。
今日の稽古
今日会う人のできている一点を、一つだけ探す。
全体を評価しない。
一動作だけを見る。
見つからなければ、思い出す。
自分が同じ壁の前で、何もできずに立っていた日のことを。
そして、見た場所を言葉にする。
「よくやってる」ではなく、どこを見たのか、を。
今日も私は、相手のできている一点を見つける稽古を実践する。
💬 「一点は見つけた。でも、どう言えばいいのか」という方へ
見つけることと、届く形で言葉にすることは、別の技術です。
私もここで詰まりました。
まったく同じ言い方をしても、すんなり受け取る人と、身構える人がいる。合気道でも同じです。
同じ一教が、相手によって効いたり、効かなかったりする。相手が変われば、応じ方を変えるしかない。言葉も、たぶん同じです。
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