「詰めが甘い」
そう言われたことがあります。
手を抜いたつもりは、まったくありませんでした。
やることはやった。
資料も出した。
連絡もした。
それなのに、甘いと言われる。
長いあいだ、これは気合の問題だと思っていました。
もっと踏ん張れ、もう一歩粘れ、と。
違いました。
詰めが甘いのは、気合が足りないからではありません。
「どこで終わりか」を、間違った場所に置いているからです。
人は、終わりだと思った瞬間に手を止めます。
どんなに気合を入れても、終わりの位置がずれていれば、そこで止まる。
力を足しても、位置は直りません。
これを、私は道場で教わりました。
合気道の一教では、相手を倒しても、技はまだ完成していません。
今日は、松下幸之助氏が書いた「止めを刺す作法」と、一教の抑えを重ねて書きます。読み終えるころには、自分の仕事の「完成の位置」がどこにあるか、決められるはずです。
松下幸之助が「止めを刺す作法」に見たもの
最後の一手を怠ることを、武士は「恥」とした
松下幸之助氏は『道をひらく』で、こう書いています。
昔は、いわゆる止めを刺すのに、一つのきびしい心得と作法があったらしい。だから武士たちは、もう一息というところをいいかげんにし、心をゆるめ、止めを刺すのを怠って、その作法にのっとらないことをたいへんな恥とした。
(松下幸之助『道をひらく』より)
物騒な話に読めますが、松下氏が見ているのは刀のことではありません。
注目すべきは、「もう一息というところ」という一語です。
失敗したのではない。
力が足りなかったのでもない。
あと少し、というところで心がゆるんだ。
そして私が引っかかったのは、その次でした。
「たいへんな恥とした」。
失敗ではなく、恥。
失敗なら、能力の問題です。
及ばなかった、で済む場合もある。
でも恥は、能力の話ではありません。
なぜ恥なのか。
その答えは、記事の後半で書きます。
一教は、相手を倒しても完成していない
抑え切って、気合を入れるところまでが、一つの技だから
合気道に、一教という基本技があります。
相手が打ってくるところを制して、うつ伏せに倒す。
ここで終わりだと思ってしまいます。
倒れているのだから、勝負はついたように見える。
でも、技はまだ完成していません。
倒したあと、相手の片手を取り、およそ110度の傾きで抑えます。
そして、しっかり固め終わるところで「エイ」と気合を入れる。
そこで、初めて一教が完成します。
では、倒れた時点でやめるとどうなるか。
返されます。
稽古では何度も経験します。
決まった、と思った瞬間に、下から返される。
相手はまだ生きているからです。
だから、抑え切るまで技をやりきる。
倒れた姿だけを見て、終わったと判断してはいけない。
一つ補足しておくと、合気道の一教は、相手を倒すための技ではありません。
動けない状態にして、そこで終わる技です。
松下氏の書いた「止めを刺す」とは、目的がまるで違います。
それでも——「最後の一手を省かない」という一点だけは、まったく同じです。
「詰めが甘い」人は、手を抜いているわけではない
自分が「終わり」だと思った場所で、正しく手を止めているから
ここが、今日いちばん書きたいところです。
詰めが甘い人は、サボっていません。
むしろ逆で、自分ではちゃんと終わらせたつもりでいます。
だから指摘されると、心外に感じる。
私がそうでした。
問題は、意欲ではありません。
「終わり」を置いた位置です。
- 契約が取れた。そこで終わりにしていないか
- 提案が通った。そこで終わりにしていないか
- 部下に指示した。そこで終わりにしていないか
- メールを送った。そこで終わりにしていないか
これは全部、「倒した」ところです。
相手は倒れています。
形の上では、片づいて見える。
でも、抑えていない。
だから、あとから返されます。
契約が履行されない。
通った提案が動かない。
指示したはずのことが進んでいない。
送ったメールが読まれていない。
そして「詰めが甘い」と言われる。
気合を入れても直らないのは、当然です。
位置がずれているところに、力だけを足しているからです。
「完成の位置」を、どこに置き直すか
自分の手が離れたところではなく、相手が動き出したところに置く
では、どこに置くのか。
一教でいえば、完成は「相手が動けなくなったところ」です。
自分が投げ終わったところではありません。
相手の状態で決まっています。
仕事も同じだと考えています。
ただし、向きが逆になります。
完成は、相手が動き出したところ。
| 対象 | 倒しただけ(✗) | 抑え切った(⭕️) |
| メール | 送った | 相手が返信できた |
| 指示 | 伝えた | 相手が動き出した |
| 提案 | 通った | 担当と期日が決まった |
| 引き継ぎ | 資料を渡した | 相手が一人でできた |
違いは一つだけです。
自分の手が離れたかどうかではなく、相手が動いたかどうか。
自分基準で終わりを決めているうちは、詰めは甘いままです。
自分の手なら、いつでも離せるからです。
ちなみに、「伝えた」で止まってしまう原因は、詰めの甘さだけではありません。
同じ指示でも、すぐ動く人と、動かない人がいます。
この相手によって伝わり方が変わる問題については、別の記事で詳しく書きました。
「そこまでやる時間がない」と思ったときに
最後の一手は、それまでの工程より、圧倒的に短いから
ここまで読んで、こう思った方がいると思います。
「全部そこまで確認していたら、時間が足りない」
確かにそう思います。
でも、一教を思い出してみます。
相手の攻撃を捌いて、崩して、うつ伏せに倒すまで。
ここに、技のほとんどの労力がかかっています。
そのあとの抑えは、数秒です。
腕を取って、角度を作って、気合を入れる。
それだけ。
それまでの工程に比べたら、無いに等しい時間です。
仕事も、同じ形をしています。
提案書を作るのに、何時間もかかる。
会議を通すのに、何日もかかる。
そして「担当と期日を決める」のは、五分です。
最後の一手は、いつも短い。
短いから、軽く見えます。
軽く見えるから、省かれる。
そして、その五分を省いたせいで、何時間ぶんかが無駄になる。
松下氏が「恥」と書いた理由は、たぶんここです。
難しくてできなかったのではない。
短くて、誰にでもできて、それでもやらなかった。
だから、言い訳のしようがない。
恥という言葉は、そういうときにだけ使われます。
最後の「エイ」は、何のためにあるのか
相手にではなく、自分に「完成した」と告げるため
ここで、一つ断っておきます。
冒頭で私は「詰めが甘いのは、気合の問題ではない」と書きました。
それなのに、一教の最後には気合を入れる。
矛盾しているように見えるかもしれません。
この二つは、別物です。
足りないぶんを根性で埋めるための気合ではありません。
終わったことに、印をつけるための気合です。
一教の最後の「エイ」を、私はそう考えています。
あれは相手を威嚇する声ではなく、自分に向けた声です。
いま、完成した。
そう告げるための区切り。
区切りがないと、人は自分が終わったのかどうか、分からなくなります。
なんとなく手が離れて、なんとなく次に移る。
そして、終わったつもりになる。
「やりっぱなし」が起きるのは、たいていここです。
終わりに、印がない。
だから、自分なりの「エイ」を一つ決めておくことをすすめます。
なんでも構いません。
大事なのは、確認できるまで、その動作をしないことです。
印がつくまで、その技はまだ終わっていません。
今日の稽古
今日終わらせた仕事を、一つ思い出す。
相手は、動き出しただろうか。
動いていないなら、それはまだ倒しただけだ。
抑え切っていない。
今日も私は、最後の一手を省かない稽古を実践する。
■ この記事を書くにあたって読み返した本
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