「自分ではどう動けばいいか分かっているのに、部下にうまく説明できない」
「会議で違和感を覚えたのに、言葉にできず、結局流されてしまった」
経験を積むほど、私たちは「なんとなく分かる」「こうすれば上手くいく」という身体感覚を溜めていきます。
しかし、その感覚を「他人に伝わる言葉」に変換できず、歯がゆい思いをするビジネスパーソンは少なくありません。
自分の中で完結している感覚を、言葉として外に出せない。
それは実は、まだそのスキルを本当の意味で自分のものにできていない証拠なのかもしれません。
心に浮かんだことを、書きとめる
名著『人を動かす』などで知られ、話し方の本質も説いたデール・カーネギー氏は、自らの思考を深めるプロセスについてこう語っています。
絶えずじっくり考えて、その結果、心に浮かんだことすべてを書きとめる。それを続けてください。何も急ぐ必要はありません。これは、あなたの職業上許された知的作業の一つであり、これこそが、あなたの心に真に想像力のあるものに育て上げる道なのです。
(デール・カーネギー『話し方入門』より)
私たちは日々の業務に追われ、「じっくり考えて言葉にする」プロセスを忘れがちです。
「できた」「終わった」で済ませてしまいます。
しかしカーネギー氏は、心に浮かんだぼんやりとした思考を、じっくりと「書きとめる」ことが知的作業だと説きます。
ぼんやりした感覚のままでは、それは自分でも掴みきれていない状態です。
急がなくてもいい。
なんとなく感じているものを、明確な輪郭を持った言葉として紡ぎ出していく。
そのひと手間を加えることで、ふわりとした感覚は初めて「自分が自在に扱えるもの」に変わるのです。
言葉になった瞬間、技が「肚落ち」する
この「感覚を言葉に落とし込む」ことの重要性は、合気道の稽古で実感しています。
稽古中、偶然きれいに相手を投げられることがあります。
「あ、今のは上手くいった」という身体の感覚は、確かに残る。
しかし、それを言葉にできないうちは、その技を再現できないことが多いのです。
なぜ今、相手のバランスが崩れたのか。
足の運びか、斬りあげる角度か、それとも脱力が効いたからなのか。
私は稽古が終わると、まだ身体に僅かに残っている「上手くいった時の感覚」が消えないうちにノートに書き留めます。「そうか、持たれたところは放っておいて、そこを動かさずに半歩入り身したのが効いたのか」と。
自分の身体の動きが「言葉」として明確になった時、初めて技の理屈が深く肚落ちします。
心と身体が一致し、次からもその技を意図的に再現できるようになるのです。
身体を動かすだけが稽古ではありません。
自分の感覚を正確に言葉にできるまで修練して初めて、技は本当に自分の血肉になります。
まぐれを、実力に変える
ビジネスのスキルやマネジメントも、全く同じです。
大きな案件を受注できた。
トラブルを未然に防げた。
「なんとなく上手くいった」で終わらせていては、属人的なまぐれで終わり、再現性はありません。
部下に教えることも、組織の財産にすることもできません。
上手くいった時こそ、立ち止まる。
「なぜ相手は納得したのか」を振り返り、自分の行動や思考のプロセスを言葉として書き出してみる。
感覚を言語化する作業は、面倒で、じれったいものです。
しかし、その作業から逃げず、見えない「コツ」を言葉に削り出せた人が、何度でも成果を再現できる。
まぐれでさえも実力に変えるのは、この言語化の力なのです。
今日の稽古
「言葉にはできないが感覚で分かる」と、言語化をサボっていないか。
自分の中の違和感や気づきを、そのまま放置していないか。
仕事が終わった後、あえて立ち止まり、自分にこう語りかける。
「この感覚を、言葉にしよう」と。
身体の感覚と、言葉の一致を図る。
今日も私は、まぐれすら実力に変える「言語化」の稽古を実践する。
■ こちらの記事もあわせて読まれています
- わかったつもりを戒める。松下幸之助と合気道に学ぶ「実践と体験」の稽古
- 読書を型稽古に変える。稲盛和夫の哲学を血肉化する「合気読書」の真髄
- 自分だけがうまくなろうとしない。カーネギーと合気道に学ぶ「関心」の稽古
■ この記事を書くにあたって読み返した本

コメント