同じことの繰り返しに見える日があります。
同じような資料を作り、同じような会議に出て、同じような指示を出す。
惰性で仕事を流しながら、頭のどこかでは別のことを考えている。
稲盛和夫氏は『京セラフィロソフィ』の中で、こう書いています。
つまり、「一つの仕事に打ち込むこと」が修行であるわけです。例えば食事を作るという場合、雑念妄念を払拭してただ食事を作ることに一生懸命になる。そのことが、やがて悟りへの道を開いていくのです。
(稲盛和夫『京セラフィロソフィ』より)
食事を作ることが、修行になる。
山にこもる必要も、特別な時間を取る必要もありません。
目の前のことでいいと書かれています。
私は合気道を15年以上続けてきました。
道場には、打ち込むとはどういうことかが、そのまま形になった稽古があります。
修行は、食事を作ることでもいい

場所を変える必要はない
修行という言葉には、どこか非日常の響きがあります。
滝に打たれるとか、座禅を組むとか。
日常ではない場所でこそ修行はするものだと思い込んでしまいます。
稲盛氏は、そうではないと言います。
一つの仕事に打ち込むこと。
それが修行である。
雑念妄念を払拭して、一生懸命になる。
つまり、同じ料理を作っていても、修行になる場合とならない場合があるということになります。
杖の稽古では、いない相手を想定する
前にも、後ろにも、相手がいることにする
合気道には、杖(じょう)を使った稽古があります。
たとえば、突き。
ただ杖を前に出せばいいわけではありません。
目の前に相手がいると想定して、きちんと突きます。
後ろに向かって突くときも同じです。
背後にも相手がいることにして、後ろ突きをします。
実際にはそこに誰もいません。
それでも、いることにする。
一人で振っているだけの動きですが、やっていることは実践と同じです。
一本ずつ、しっかりと打ち込む。
相手を想定した動きと、形だけをなぞった動きとでは、まったく異なるものになります。
形だけの動作と、意味のある動作は、外から見ると同じ

違うのは、そこに誰を想定しているか
杖を振っている姿は、どちらも同じに見えます。
相手を想定して突いている人と、形をなぞっているだけの人。
動きは似ています。回数も同じ。
外からは区別がつきません。
それでも、積み重ねた結果はまったく違ってきます。
意味合いを理解したうえで稽古をしていると、本当に身についていきます。
理解しないまま回数を重ねても、形は覚えますが、それだけです。
仕事も、たぶん同じです。
同じ資料を作っていても、誰が読むのかを想定している人と、ただ様式を埋めているだけの人。
同じ会議に出ていても、誰の判断を助けるために出ているのかが分かっている人と、席にいるだけの人。
外からだと、どちらも同じように仕事をしているように見えます。
今日の稽古

杖の稽古で、目の前には誰もいない。
それでも相手がいることにするから、一本の突きが稽古になる。
想定がなければ、ただ棒を振っているだけだ。
雑念妄念を払拭するというのは、
余計なものを消すというより、いま向き合う相手を一つに絞るということ。
惰性で仕事をこなしそうになったとき、自分にこう言い聞かせる。
「目の前の仕事に打ち込んでいると言えるか」と。
今日も私は、一本ずつ打ち込む稽古を実践する。
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