稽古で、技がかからないことがあります。
そういうとき、相手の受け方が悪いと思いたくなってしまいます。
実際、受けが初心者だと、うまく受けられないこともあります。
松下幸之助氏は『道をひらく』で、すべてを他人のせいにしてしまいたいのは人情の常だと書いています。
そのうえで、それは勇気なき姿であり、心弱き姿だと言い切っています。
人のせいにしたくなる気持ちそのものは、否定していません。
ただ、その気持ちに従うことを、勇気の問題として書いています。
相手の受けが悪い、と思いたいときがあります
技がかからないとき、頭に浮かぶのは自分の技のことより先に、相手の受けのことです。
初心者が相手なら、受けがうまくできないのは本当です。
それはそれで事実です。
ただ、それすらも、よい稽古に変えていくことはできます。
うまく受けられない相手にどう技をかけるか。
それ自体が稽古になります。
相手のせいにばかりしていると、稽古相手がいなくなります。
松下幸之助「それは実は勇気なき姿である」

すべてを他人のせいにしてしまいたいのは、人情の常ではあろうけれども、それは実は勇気なき姿である。心弱き姿である。そんな人びとばかりの社会には、自他ともの真の繁栄も真の平和も生まれない。
(松下幸之助『道をひらく』より)
松下氏は、人のせいにしたくなるのを「人情の常」と書いています。
誰にでもある気持ちだと認めています。
そのうえで、「勇気なき姿」と言います。
人のせいにすると、自分の足りないところを見なくて済みます。
技がかからなかった理由が相手にあるなら、自分は何も変えなくていい。
楽です。
その楽さを選ぶことを、松下氏は勇気がないと言っています。
そして、そういう人ばかりの社会には、自他ともの繁栄も平和も生まれないと続けます。
道場に置き換えると、よく分かります。
相手の受けのせいにする人ばかりの道場では、誰も上達しません。
相手が高段者でも、同じ考えが出てきます
初心者が相手のときだけではありません。
高段者に持たれると、技がまったくかからないことがあります。
本当に気を出して合わせることができていないと、相手はびくともしません。
そういうときにも、こう考えてしまうことがあります。
こんな受けをされたのでは、技がかからない。
これでは稽古にならない。
これも相手が悪い。
相手が初心者でも、高段者でも、同じ考えが出てきます。
どちらのときも、見ているのは自分ではなく相手です。
いったん受け入れてから、足りないものを探します

受けは、技がかかっていないことを教えてくれています。
受け方の良し悪しより先に、技がかかっていないという事実がある。
そこをいったん受け入れる。
そのうえで、自分のなかで何が足りないのか、どうすればよいのかを、しっかり反省する。
そして改善していく。
その繰り返しのなかで、技が磨かれていきます。
相手のせいにしているあいだは、この繰り返しが始まりません。
反省する材料が、ぜんぶ相手の側に置かれたままになるからです。
松下氏の言う勇気は、大きな決断のことではありませんでした。
技がかからなかったとき、それを自分の問題として引き受けること。
その小さな引き受けを、毎回やれるかどうかです。
修練を重ねるうちに、相手が悪いという発想は消えていきました
仕事では、いまは基本的に「相手が悪い」という発想がなくなりました。
きれいごとで言っているのではありません。
そういうふうに、人生の修練を重ねてきた結果だと思っています。
技がかからなければ、足りないものを自分の側で探す。
同じ本の同じ一節に、何度も戻る。
そういうことを繰り返してきました。
一方で、道場では、いまでも相手の受け方が悪いと思いたくなるときがあります。
仕事では消えた発想が、稽古ではまだ顔を出す。
修練は、まだ途中です。
今日の稽古

技がかからず、受けのせいにしたくなるとき、こう自分に問いかける。
「それは勇気なき姿ではないか」と。
今日も私は、受けから教わる稽古を続ける。
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