稽古で受けを取っていると、相手の技がなかなかかからないことがあります。
かからないあいだ、受けの側は、相手がどこでつまずいているかを見ています。
デール・カーネギー氏は『人を動かす』で、人を非難する代わりに、相手を理解するように努めようと書いています。
どういうわけで、相手がそんなことをしでかすに至ったかを、よく考えてみようと。
受けの側に回ると、それが自然にできます。
そして、理解したことを相手に渡すと、お互いの稽古が変わっていきます。
受けに回ると、相手がどこでつまずいているかが見えます
合気道の稽古では、技をかける側と受ける側を交代します。
相手が技をかけてくる。
こちらは受けている。ところが、なかなか技がかからない。
そういうとき、受けの側は、ただ待っているわけではありません。
相手の動きをよく観察し、身体で感じ取っています。
どこで力が入ったか。
どこで足捌きが止まったか。
技をかけている本人は、自分がどこでつまずいているのかが分かりにくいものです。
かけることで精一杯だからです。
受けの側は、それを外から、しかも身体で受け取っています。
カーネギー「どういうわけで、相手がそんなことをしでかすに至ったか」

人を非難する代わりに、相手を理解するように努めようではないか。どういうわけで、相手がそんなことをしでかすに至ったか、よく考えてみようではないか。そのほうがよほど得策でもあり、また、面白くもある。そうすれば、同情、寛容、好意も、自ずと生まれ出てくる。
(デール・カーネギー『人を動かす』より)
同じ一節でも、読み返すたびに目に留まる場所が変わります。
今回引っかかったのは、「どういうわけで」のところです。
カーネギー氏は、相手のしたことを責めるより先に、そこに至った理由を考えようと言っています。
結果ではなく、そうなった道筋を見る。
技がかからないのにも、道筋があります。
力が入るのには理由がある。
足捌きができないのにも理由がある。
受けの側から見ていると、その道筋がたどれます。
相手よりも、相手のことが分かることがあります
相手の立場になって考えていると、ときどき、相手よりもよく相手のことが分かります。
技をかけている本人は、「かからない」ことしか分かりません。
受けている側は、なぜかからないのかを、動きの途中で感じ取っています。
なぜここで力が入るのか。
なぜこの足捌きができないのか。
こうしたことは、かけている本人より、受けている側のほうが先に気づきます。
つまずき方を、受けの側から体感してもらいます

分かったことは、相手に渡します。
ひとつは、動きや言葉で伝えることです。
もうひとつは、相手がつまずいていたのと同じように技をかけてあげることです。
相手と同じところで、同じようにつまずいてみせる。
そうすると、相手は受けの側から、そのつまずきを体感します。
これは、ものすごく伝わります。
言葉で「力が入っている」と言われるより、自分がされて「こういうことか」と分かるほうが、理解が深くなるからです。
理解を渡すと、稽古は高め合いに変わります
カーネギー氏は、相手を理解しようとすれば、同情、寛容、好意も自ずと生まれ出てくると書いています。
道場で起きるのは、それに近いことです。
相手のつまずきを理解すると、責める気持ちは出てきません。
どうして力が入るのか、その道筋が見えているからです。
そして、理解したことを渡すと、相手の理解も深くなります。
一方が教えて、一方が教わるのではありません。
受けと取りを交代しながら、お互いに高め合っていく。
理解は、自分の中にとどめるより、相手に渡したときに稽古を変えます。
今日の稽古

相手のできなさが気になるとき、こう自分に問いかける。
「どういうわけで、そうなっているのか」と。
今日も私は、受けの側から相手を見る稽古を続ける。
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