「部下の未熟な仕事ぶりが目について、苛立ってしまう」
「相手も自分と同じくらいやってくれるのが、当然だと思ってしまう」
チームで働く中で、私たちはつい「なぜもっと動けないのか」と周囲に不満を抱きます。
自分が努力して上達した自負があるからこそ、足元の疎かな相手に厳しい目を向け、高い水準を求める。
しかし、その不満が伝わるほど、周囲は萎縮し、かえってチームの成長が止まってしまうことがあります。
なぜ、相手を正そうとしているだけなのに、チーム全体の歯車が狂ってしまうのでしょうか。
自分を厳しく律しながらも、他者の未熟さを丸ごと包み込む。
中村天風氏は、この心のあり方を「清濁併せ呑む」と表現しました。
今回は、天風氏が説く「自分への厳格さと他者への寛容さ」と、合気道を通じて思い知らされる「相手の未熟に不満を持たない稽古のあり方」についてお話しします。
自分には厳しく、他者には「清濁併せ呑む」寛容さを
器の大きい人間のあり方について、中村天風氏は著書『叡智のひびき』の中でこのように説いています。
自分に対しては、常に厳然として自ら粛(つつし)まねばならぬことは何よりも必要のことであるが、自己以外の人に対しては、あくまで清濁併せ呑むという寛容さを失ってはならない。
(中村天風『叡智のひびき』より)
自分を高めるには、常に厳しく律する必要があります。
これは上達に欠かせません。
しかし天風氏は、「他者には、清濁併せ呑むほどの寛容さを持て」と語ります。
自分ができているからといって、それを他人への物差しにしてはいけない。
相手の未熟さも至らなさも、すべてを一度受け入れる大きな器を持つこと。
この「内への厳しさと、外への柔らかさ」の両輪があって初めて、人は信頼を集める存在へと成熟していくのです。
未熟を、侮らない
この「自分に厳しく、他者に寛容」という姿勢の難しさを、私は合気道の道場で痛感しています。
合気道は、数回やった程度や、数ヶ月の稽古で動けるようになるほど甘いものではありません。
その大前提があるにもかかわらず、自分が少し上達してくると、つい傲慢になりがちです。
初心者の受けが少し雑だったり、気ではなく力任せに技をかけてきたりした時、心の中で「もっと基本通りに持ってほしい」「なぜ力を抜かないのか」と、相手の未熟に不満を抱いてしまうのです。
しかし、最初から相手に完璧を求めてはいけません。
こちらが不満の気配を出した瞬間、相手は「自分はダメなんだ」と意欲を失い、合気道を続けること自体が嫌になってしまいます。
未熟なものを、絶対に侮らない。
相手が力任せに来たら、拒絶するのではなく、まずその未熟さをそのまま受け入れる。
もし自分がうまく捌けなかったのなら、それは相手のせいではなく、自分の技が足りないのだと素直に反省し、自分の軸を立て直す。相手に完璧を求めるのをやめ、寛容になって、一緒に成長していく。
寛容さを欠けば、勝ち続けないと満足できなくなる
日々のマネジメントでも、この呼吸が必要です。
優秀な人ほど、自分が通ってきた厳しい基準を、部下にも求めてしまいます。
しかし、相手の未熟に不満を抱き、「間違いを改めさせる」と正面からぶつかれば、そこには対立が生まれます。
心に寛容さがなければ、やがて「相手に勝ち続けなければ満足できない」という傲慢な状態に陥ります。
それでは、どれだけ素晴らしい成果を出しても、自分の心が穏やかになることは決してありません。
本当に強い人は、誰よりも自分を厳しく律しながら、足元の未熟な他者をどこまでも温かく包み込みます。
「まだできないのは当たり前。どうすれば一緒に一段上へ登れるか」
その前提で言葉をかけ、全体感を示しながら手を差し伸べる。
相手の不完全さを受け入れる間合いがあるからこそ、周囲は安心して自発的な一歩を踏み出し、チーム全体が調和して成果を出し続けることができるのです。
今日の稽古
部下の至らない点を見た時、自分の物差しで不満を抱いていないか。
少し上達したからといって、他人の未熟を侮る傲慢に囚われていないか。
完璧主義で心がトゲトゲしそうな時、自分にこう語りかける。
「自分には厳しく、他人には清濁併せ呑む寛容さを持とう」と。
自分の基準で裁く無理を手放し、大きな器で相手と向き合う。
今日も私は、どんな未熟も包み込み、共に高め合う「寛容」の稽古を実践する。
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