「目先の数字を追うあまり、少し後ろめたい手段を選びそうになる」
「立場が上がるにつれて、自分の決断に迫力がなくなってきた気がする」
組織を率いる中で、私たちは「結果さえ出せばいい」「要領よく立ち回ればいい」という誘惑に駆られます。
小さな妥協、自分を有利に見せようとする私心。
しかし、そのわずかな心のブレがあると、ここぞという重要な局面で、決断を鈍らせてしまうことがあります。
私たちがどんな困難を前にしても怯むことなく、周囲を率いる圧倒的な勇気と迫力を持ち続けるためには、一体どのような心構えが必要なのでしょうか。
今回は、稲盛和夫氏が説く「公明正大さがもたらす本当の勇気」と、合気道で思い知らされる「勝てば何でもよしではない自律の精神」についてお話しします。
公明正大さが、本当の勇気を生む
人を率いるリーダーの「迫力」の根源について、稲盛和夫氏は著書『京セラフィロソフィ』の中でこのように説いています。
経営には、リーダーが持つリーダーシップが非常に大事ですが、そのためにはリーダー自身に「自分はいつも公明正大だ」と言えるだけの迫力が要ります。「会社は、インチキなこと、不正なことはしていません。私も、決まった給料で生活しています」と言い切れるところに迫力が生じるし、その公明正大さが経営者自身を強め、経営者としての勇気をわき立たせるのです。
(稲盛和夫『京セラフィロソフィ』より)
リーダーシップの本質は、マネジメントスキルや威圧的な態度にあるのではありません。
「自分は一点の曇りもなく、正しい道を歩んでいる」という公明正大さにこそ、人を惹きつける本当の迫力が宿ります。私利私欲を捨て去り、誰に対しても堂々と渡り合える。
その潔さが自分の心を最も強く支え、どんな修羅場でもブレずに決断できる勇気を与えてくれるのです。
勝てば何でもよし、ではない
この「正しい道を貫くことの強さと厳しさ」を、私は合気道の稽古で思い知らされています。
もしこれが路上の喧嘩なら、どんな手を使ってでも相手をやっつけた者が勝ちかもしれません。
「とにかく勝てばいい、何をしてでも屈させればいい」という考えもあるでしょう。
しかし、合気道はその対極にあります。
合気道の核心は、相手を力でねじ伏せて優劣を競うことではありません。
そもそも対立を生まないこと、争いそのものを起こさないことです。
だからこそ、稽古では常に「人として、正しい振る舞いか」という厳しい目が、自分自身に向けられます。
ただ勝つために、武道の理合いから外れた汚い動きをしていないか。
外見上はどれほど綺麗に相手を制したように見えても、自分の心に傲慢さや優越感が混ざった瞬間、それはもう合気道ではありません。
他者を屈服させることよりも、「自分で自分を律することができているか」という内なる自律が、厳しく問われるのです。
勝てば何でもよし、ではない。
その厳しい自律の先に、合気道の美しさがあるのです。
後ろめたさが、迫力を奪う
ビジネスや組織を率いる立場でも、この呼吸は同じです。
どんな手段を使ってでも競合に勝ちたい、自分を優秀に見せたいという思いから、都合の悪い事実を隠す。
成果を大げさにアピールする。
その瞬間、私たちは無意識にも「私利私欲の信号」を周囲に発しています。
周りのメンバーや取引先は、その微かな傲慢や保身の匂いを本能的に察知し、リーダーへの信頼を静かになくしていくのです。
何より、自分自身が一番「後ろめたさ」を知っています。
だからこそ、ここ一番の交渉やトラブルで、腹の底からの迫力ある決断ができなくなってしまうのです。
本当に強い人は、誰に見られても恥じない「公明正大さ」がベースにあります。
私心を捨て、正しいことを愚直に貫く。
その自律があるからこそ、こちらの掲げる大義にも信頼を寄せてくれるのです。
小手先のテクニックで人をコントロールしようとするのをやめ、自らを厳しく律すること。
その一点の曇りもない姿勢が、結果としてあなた自身を強め、堂々と未来を切り拓く勇気を湧き上がらせてくれるのです。
今日の稽古
目先の保身のために、小さな妥協に手を染めそうになっていないか。
「勝てばいい」という傲慢さから、人として正しい道を外れていないか。
弱気になりそうな時、自分にこう語りかける。
「私心を捨て、公明正大であるべきだ」と。
自分を有利に見せようとする私心を手放し、自らを律する。
今日も私は、どんな局面でも人として正しい道を貫く「自律」の稽古を実践する。
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