武道とは、本来人を傷つけ、場合によっては命を奪うこともできる技術体系を発祥としています。
ではなぜ、私たちはあえてそのような危険な技術を身につけようとするのでしょうか。なぜ、何年も道場に通い、厳しい稽古を続けるのでしょうか。
もしその目的が、「喧嘩に強くなって人の上に立ちたいから」「腕っぷしを誇示して格好をつけたいから」、あるいは「相手を打ち負かすことそのものが目的」だとしたら、それは道を歩む者として大きな間違いです。そのような考えで進んでいけば、やがて壁にぶつかり、挫折してしまうことでしょう。
仕事や人生における大きな挑戦についても同じことが言えます。
何かを成し遂げようとする時、その根底にある「動機」がどこに向かっているのかが、最終的な結果を、さらには自分自身の人格をも決定づけることになるからです。
その動機は「普遍的に良きこと」か
稲盛和夫氏は、著書『京セラフィロソフィ』の中で、夢や目標に向かう際の「動機」の重要性について、こう厳しく問います。
大きな夢を描き、それを実現しようとするとき、「動機善なりや」ということを自らに問わなければなりません。自問自答して、自分の動機の善悪を判断するのです。
善とは、普遍的に良きことであり、普遍的とは誰から見てもそうだということです。自分の利益や都合、格好などというものでなく、自他ともにその動機が受け入れられるものでなければなりません。
(稲盛和夫『京セラフィロソフィ』より)
「動機善なりや、私心なかりしか」。
自分の出世や評価を上げるためだけの無理なプロジェクト推進や、自分のエゴを満たすための強引なマネジメント。そうした私心から出発した目標は、たとえ一時的に成功したとしても、決して長続きしません。周囲の協力を得られず、どこかで必ず破綻をきたすからです。
自分だけでなく、他者から見ても、そして社会から見ても「それは素晴らしいことだ」と受け入れられる普遍的な善。それこそが、物事を成し遂げるための本当の土台となるのです。
相手を理解し、ともに高め合う
合気道を学び始めたばかりの頃は、この「普遍的な善」を体現するのは非常に難しいものです。
最初は誰もが「相手を倒したい」「自分の技を上手く見せたい」という小さなエゴを抱えています。
しかし、愚直に稽古を重ねていくうちに、合気道という武道が持つ精神性の高さに気づかされます。
合気道には試合がありません。
相手を打ち負かすことが目的ではないからです。
技をかける側(取り)と、技を受ける側(受け)を交互に役割を変えながら稽古を繰り返す。そして特に「受け」の痛みを通じて、相手の力や心の動きを深く理解する心を養っていきます。
自分一人だけが強くなるのではなく、相手と調和し、相手とともに自分を高め合っていく。
武道という厳しい身体操作を通じて、人間としての精神と人格をも高めていくこと。それこそが、合気道という道を歩む過程で体得できる一つの「普遍の善」であり、合気道の魅力なのです。
今日の稽古
何か新しいチャレンジをする時、自分にこう語りかける。
「動機善なりや、私心なかりしか」
自分の利益やプライドだけの行動は、やがて行き詰まる。
今日も私は、誰から見ても良きことだと胸を張れる考え方の稽古を実践する。
■ こちらの記事もあわせて読まれています
- 思い通りにならない苦しみを「調和」に変える。中村天風と合気道に学ぶエゴを手放す稽古
- 嫉妬を捨て、他人の成長を喜ぶ。稲盛和夫と合気道に学ぶ、試練を越える稽古
- なぜ強引な人は孤立するのか。松下幸之助と合気道に学ぶ「美しい勝ち方」の本質
■ この記事を書くにあたって読み返した本
|
価格:2640円 |

コメント