「相手の誤解を解こうとして、ついつい感情的に議論を吹っかけてしまう」
「職場の後輩に対して、なぜこんなことすらできないのかとイライラしてしまう」
日々のビジネスの現場や人間関係の中で、私たちは時に意見の対立や誤解に直面することがあります。
自分の正しさを証明しようと正論をぶつければぶつけるほど、相手は頑なになり、関係がさらに冷え切っていく……。
そんな泥沼のコミュニケーションから抜け出すには、一体どのようなことが必要なのでしょうか。
今回は、デール・カーネギー氏が説く「思いやりの真髄」と、合気道の稽古で体感する「穏やかさの理由」についてお話しします。
議論をもってしては、誤解は永久に解けない
デール・カーネギー氏は、著書『人を動かす』の中で、他者との衝突や誤解を解消するための真理として、次のように説いています。
釈尊いわく、「憎しみは、憎しみをもってしては永久に消えない。愛をもってはじめて消える」
誤解は、議論をもってしては永久に解けない。機転、外交性、慰め、いたわり、そして、相手の立場で同情的に考える思いやりをもってして、はじめて解ける。
(デール・カーネギー『人を動かす』より)
どれほど自分が正しかったとしても、議論で相手を言い負かそうとする行為は、相手の自尊心を傷つけ、さらなる反発を生むだけです。
誤解や対立を根本から解消することができるのは、理詰めの言葉ではなく、相手の背景に思いを馳せ、その立場に寄り添おうとする「同情的な思いやり」なのだとカーネギー氏は教えてくれます。
合気道に「穏やかな人」が多い理由
この「議論をせず、相手の立場に立つ」という深い精神性を、私は長年の合気道の稽古を通じて実感しています。
不思議なことに、合気道を学んでいる人には、物腰が柔らかく穏やかな人が非常に多いのです。
それには、武道としての特性に基づいた理由があると感じています。
そもそも合気道に興味を持つ人は、「力で人を高圧的に攻撃し、相手を圧倒してボコボコにしたい」という性格ではありません。
むしろ、「しなやかに生きたい」「万が一、誰かに襲われたときには、相手を傷つけることなくその力を捌けるようになりたい」と願う、調和を重んじる心の持ち主が集まっています。
そしてもう一つ、道場が穏やかな空気に満ちている最大の理由は、「合気道の技は、できなくて当たり前」という前提を全員が共有しているからです。
合気道の身体操作は非常に繊細で難しく、一朝一夕で身につくものではありません。
道場にいる誰もが、その「できないもどかしさ」を身をもって知っています。
その難しさを全員が身に沁みて理解しているからこそ、まだ技が上手にできない初心者に対しても、自然と優しい目線で接することができるのです。
ビジネスの現場でありがちな、「なんでこんな簡単なことができないんだ」と頭ごなしに指導したり、助言したりする人は道場にはいません。
お互いが未熟さを認め合い、いたわり合う文化が道場の中にはあります。
心と身体で「相手の立場」に同化する
相手を思いやるとは、単なる言葉の綺麗事ではありません。
合気道の稽古は、まさに「心と身体で、相手の立場に立つ」プロセスの連続です。
技をかけるときも、受けるときも、自分勝手に相手をコントロールしようとすれば、必ず身体のぶつかり合いが起きます。
相手が今、どのような体勢で、どの方向に力を出しているのか。
それを自分の身体のセンサーで敏感に感じ取り、相手の視点と同化するようにして動くことで技が滑らかに決まります。
この身体感覚は、そのまま日常の人間関係における「思いやり」へと直結していきます。
相手を正論で論破しようとするのをやめ、まずは機転といたわりを持って、相手の置かれた状況に同情的に耳を傾ける。
自分がしなやかに相手の立場に立つことで、頑なだった相手の心も解けていくのです。
これこそが、武道を通じて人格を形成していく成長の道理に他なりません。
今日の稽古
思い通りに動かない相手に対して、頭ごなしにイライラをぶつけていないか。
自分の正しさを証明するために、不毛な議論を戦わせていないか。
人間関係で摩擦が起きそうになった時、自分にこう語りかける。
「相手の立場に立ってみよう」と。
正論でねじ伏せる傲慢さを手放し、いたわりと調和の心で人と向き合う。
今日も私は、目の前の相手を深く思いやる人格の稽古を実践する。
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