「もっと高尚なことを学べば、自分が変わるのではないか」
「特別な修行をしなければ、本当の悟りの境地には辿り着けないのではないか」
毎日の仕事や家事など、代わり映えのしない日常を淡々とこなしながら、ふとそんな疑問や不安を感じることはありませんか。
目の前にある「何の変哲もない日常」を繰り返すだけで、本当に自分の魂は磨かれているのだろうか。
もっと特別な、何か劇的な出来事が必要なのではないか、と。
魂を磨くのは、俗なる日常である
稲盛和夫氏は、著書『生き方』の中で、人格を練り、魂を磨くための方法についてこう断言しています。
それでは、人格を練り、魂を磨くには具体的にどうすればいいのでしょうか。
山にこもったり、滝に打たれたりなどの特別な修行が必要なのでしょうか。
そんなことはありません。
むしろ、この俗なる世界で日々懸命に働くことが何よりも大事なのです。
(稲盛和夫『生き方』より)
世俗を離れて山にこもることでも、滝に打たれることでもない。
私たちが毎日生きているこの泥臭い現実の中で、懸命に働き、目の前の仕事に真剣に向き合うこと。
それこそが魂を磨く道なのだと稲盛氏は説きます。
秘技などない。ただ、目の前の基本があるだけ
合気道を習い始めると、誰もが一度はこう期待します。
「いつか、合気道の奥義を特別に伝授してもらえるのだろうか」
「高段者にしか知らせない秘伝の教えがあるのではないか」と。
しかし、実際の道場で何年も何十年も繰り返されるのは、そんな特別なものではありません。
一教、二教、四方投げ、入身投げ。
毎回、同じ基本技の愚直な繰り返しです。
地味で、単調で、外から見れば予定調和のお遊戯のようにすら見えるかもしれません。
「こんな同じことの繰り返しで、本当に武道として成長できるのだろうか」
「人格を磨くことと、この単調な動きがどう結びつくというのか」
多くの人がそんな不安や疑問を抱えながらも、目の前の稽古を続けます。
何の変哲もない反復が、日常に染み出す瞬間
ところが、倦まず弛まず(うまずたゆまず)愚直に稽古を続けていくうちに、ある日、決定的な変化に気づきます。
気を出して、相手と合わせる。
自分の力みを抜いて、ぶつからずに導く。
一つ一つは何の変哲もない身体の動きです。
しかし、その何万回と繰り返した単調な技が、やがて有機的につながり、道場の外の「日常の立ち居振る舞い」へと静かに染み出し始めるのです。
仕事で理不尽な要求をされても、相手の感情とぶつからなくなる。
トラブルに直面しても、力まずに静かに対処できるようになる。
「いつの間にか、心が平静を保てるようになっていた」と気づく瞬間が必ず訪れます。
稽古の最中には、成長の実感はなかなかありません。
先の見えない単調さに不安になる時期もあります。
それでも、目の前の一つの技に懸命に取り組む。
その愚直な積み重ねが、気づかないうちに私たちを人格の高みへと運んでくれるのです。
大丈夫、この道を歩けばいい
稲盛氏の言葉通り、魂を磨く場所は特別な山の中にあるのではありません。
目の前の仕事に、目の前の稽古に、ただ真剣に向き合うその「俗なる日常」の中にこそあります。
日々の単調さに迷いそうになった時は、思い起こしてみる。
これまでの先人たちが、私たちと同じ道を歩み、同じような不安を抱えながらも、一つ一つの稽古を積み重ねてきたということを。
そこには、間違いなく築き上げられた叡智があります。
特別な修行はいりません。
大丈夫、そのまま目の前の道を懸命に歩めばいいのです。
今日の稽古
「もっと特別なことをしなければ」と、目の前の日常を軽んじていないか。
魂を磨くのは、俗なる日々の中で懸命に働くこと、懸命に稽古することだ。
日々の単調さに成長を感じられず不安になる時、自分にこう語りかける。
「大丈夫。この目の前の一つのことに懸命に向き合えばいい」と。
先人の叡智が積み重なった道を、倦まず弛まず歩み続ける。
今日も私は、何の変哲もない目の前の日常に、懸命に向き合う稽古を実践する。
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